2010年 12月の記事一覧
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大阪で見かけたこの都会に不似合いな杉の大木。
ここには写っていませんが生えている足元は花壇です。おそらくもともと花壇にふさわしい中くらいの木だったのが、年月とともにどんどん成長を続けて、今日の姿になったのでしょう。たくましい成長力に驚きます。
同じビルの屋上にはこれまたジャングルのような植栽群が、ビルを占領する勢いで我も我もと顔を出しています。
本来ビルの屋上にあまり厚い土を載せると重くなって、構造的に不利なのでせいぜい50cm位しかない場合が多いのですが、この木の茂り具合ではその厚みも厚いことが予想されます。
建築は人工物ですが、木は自然のもの。対比的なこの光景はそのせめぎ合いを示していますが、このビルではどちらが最終的に勝ちを収めるかは予想がつきますね。
ほとんどの方がこの写真をご覧になってどこがおかしいだろう?とお思いになったと思います。
建物と建物をつなぐこの庇には樋がないため雨の日には跳ね返りが下から来るのです。まだこの日はさほどの大降りでもなく、風も強くなかったのでまだましですが、小降りでも庇の高さがありますので、跳ね返りは相当のものです。傘を斜め下向きに差したい位なのです。
樋を付けない理由はおそらく見た目がかっこいいということでしょう。これを設計した人は気づいていない可能性があります。たまたま雨の日に自分の設計した建物を見に来れば、わかるかもしれません。
もう一つここには困ったことがあります。遠方で人が庇に沿ってなにやらくつろいでいます。これは建物の中に喫煙所がないので、愛煙家はここで一斉にくゆらすのです。非喫煙者はたまったものではありません。
かく言う筆者は15年前にやめました。以前吸っていた人間は全然吸ったことのない人よりずっと煙には厳しいとよく言いますが、まさしくその通りなんです。
傘をもうひとつの建物の入口に置いてきた人はこれを避けられませんが、私は小雨をいいことに写真を撮った後雨の中をダッシュしました!
後者は設計者のせいではないのですが、建物をかわいがっていただくためには建築家は想像力を働かせねばならないということですね。
今日もどちらかというと構造物ですね。
自転車で走っていると車道の段差が気になりますが、こんなのがありました。
写真の右側が短いので少し見にくいのですが、この縁石の長さは1mくらいしかありません。歩道の形式には2種類あって、車路より高くなっているものと車道とフラットで縁石だけが突出しているものですここは混在しています。
ちょうどフラットなところに人が歩いていたので、それを避けたら危うく自転車で突っ込むところでした。
人が引っ掛かりやすい罠は道路にはたくさんあるのですが、これは際立っています。
どうしてこんな縁石ができたのでしょうか。
たぶんそれはお役所には道路の作り方のマニュアルが原因しているのでしょう。道路の具体的な事情を勘案しないで、それに沿って機械的に作るとこうなります。
かれらは現場の状況に合わせて作ると上司に怒られるのでしょうね。お役所仕事にかぎらず組織が大きくなると本来の意味を忘れて規則が独り歩きする弊害が出てくるものです。
写真をよく見るとくだんの縁石にはタイヤのこすった跡がいっぱいついています。みんなに迷惑がられる縁石も「なぜ俺はここにいるのだ」と自問自答しているのかもしれません。
自転車で走っていると車道の段差が気になりますが、こんなのがありました。
写真の右側が短いので少し見にくいのですが、この縁石の長さは1mくらいしかありません。歩道の形式には2種類あって、車路より高くなっているものと車道とフラットで縁石だけが突出しているものですここは混在しています。
ちょうどフラットなところに人が歩いていたので、それを避けたら危うく自転車で突っ込むところでした。
人が引っ掛かりやすい罠は道路にはたくさんあるのですが、これは際立っています。
どうしてこんな縁石ができたのでしょうか。
たぶんそれはお役所には道路の作り方のマニュアルが原因しているのでしょう。道路の具体的な事情を勘案しないで、それに沿って機械的に作るとこうなります。
かれらは現場の状況に合わせて作ると上司に怒られるのでしょうね。お役所仕事にかぎらず組織が大きくなると本来の意味を忘れて規則が独り歩きする弊害が出てくるものです。
写真をよく見るとくだんの縁石にはタイヤのこすった跡がいっぱいついています。みんなに迷惑がられる縁石も「なぜ俺はここにいるのだ」と自問自答しているのかもしれません。
今回も建築というより工作物だがお許し願いたい。
写真は大阪の神社の池。
そもそも池は人工的に作ったものではなく、昔からそこにある景観である。
おそらく管理上からネットを設けたと思われるが、著しく景観を傷つけ、心理的にも、歴史・地理・文化的にも、すべてにおいてこれを見た人の心は傷つくであろう。
手間をかける、手入れをするなど物や環境を大事にする心がどんどん失われていくのだろうか。すべて「面倒だから」という気持ちから来ている。
自然を大事にすることにより人間の心に訴えるものがなければならない神社が、あろうことか「管理」「面倒」を優先してしまっている。まったく憂えるべきことである。
写真は大阪の神社の池。
そもそも池は人工的に作ったものではなく、昔からそこにある景観である。
おそらく管理上からネットを設けたと思われるが、著しく景観を傷つけ、心理的にも、歴史・地理・文化的にも、すべてにおいてこれを見た人の心は傷つくであろう。
手間をかける、手入れをするなど物や環境を大事にする心がどんどん失われていくのだろうか。すべて「面倒だから」という気持ちから来ている。
自然を大事にすることにより人間の心に訴えるものがなければならない神社が、あろうことか「管理」「面倒」を優先してしまっている。まったく憂えるべきことである。
写真は黒川紀章設計の豊田大橋。
デザインは素人には評判がいい。
しかしどう考えても張りぼてに見える。下の写真は近接して撮った写真。
パネルで覆われている。
本来橋の美しさは構造が端的に表れているところにあり、近代建築に駄作が多くなったのは材料の強度が高まったことにより、建築のデザイン自由度が高くなったことに起因していると思う。
自由だから勝手に付加物を付け、構造を隠し、「デザイン」したことに問題がある。
また片側2本の内、外側のアーチはどう考えても構造的に寄与していると思えない。
下の写真はちょうどその中央部分だが、左右のアーチの足元にスリットがあり、構造的に不可解であり、外見のみにこだわった様子がありありとわかる。
さらに「張りぼて」には長期間の耐久性に問題がある。構造材とパネルとの間には空間があり、このなかに水分が入り込むと外見では分からない腐食が始まることになる。
外見でわかれば対策の方法があるが、本体が隠されていると知らないうちに致命的になる。
もうパネルのジョイントが汚れているが、心配である。
しかしどう考えても張りぼてに見える。下の写真は近接して撮った写真。
パネルで覆われている。
本来橋の美しさは構造が端的に表れているところにあり、近代建築に駄作が多くなったのは材料の強度が高まったことにより、建築のデザイン自由度が高くなったことに起因していると思う。
自由だから勝手に付加物を付け、構造を隠し、「デザイン」したことに問題がある。
また片側2本の内、外側のアーチはどう考えても構造的に寄与していると思えない。
下の写真はちょうどその中央部分だが、左右のアーチの足元にスリットがあり、構造的に不可解であり、外見のみにこだわった様子がありありとわかる。
さらに「張りぼて」には長期間の耐久性に問題がある。構造材とパネルとの間には空間があり、このなかに水分が入り込むと外見では分からない腐食が始まることになる。
外見でわかれば対策の方法があるが、本体が隠されていると知らないうちに致命的になる。
もうパネルのジョイントが汚れているが、心配である。
①で設計士は空白が嫌いと書いた。
これも何かに使わなきゃという思いでつくったのだろう。
ちょうど角地にあるのだから皆が通れるようにするとか、ちょっと腰掛けられるようにすると通行人は喜び、建物とその作り手に対しても好印象を持つはずだ。
まるで墓石のような光景を見るよりずっといいはず。公共の場に与える影響に建物はもっと責任を持つべきだ
これも何かに使わなきゃという思いでつくったのだろう。
ちょうど角地にあるのだから皆が通れるようにするとか、ちょっと腰掛けられるようにすると通行人は喜び、建物とその作り手に対しても好印象を持つはずだ。
まるで墓石のような光景を見るよりずっといいはず。公共の場に与える影響に建物はもっと責任を持つべきだ
ブロクの書き始めからこんなタイトルでは思いやられるかもしれない。
今世間ではB級ブームである。それに便乗してシリーズで紹介していきたい。
これは名古屋市近郊都市の賃貸マンションの「庭」である。マンションのバルコニー側からも道路側からもこの庭に入ることができない。
それを作った人たちには植栽の水やりや手入れは念頭にないのかもしれない。
想像するに設計士はえてして建築の余った部分を植栽で埋めたがる。空白恐怖症というものだ。
一方建築主(大家さん)は敷地を囲いたがる。囲い込み症候群だ。
この2つの合併症がこんな症状になって世間に登場したのである。
フェンスはポスターを貼るのにちょうどいいかもしれない。住人は2重のバリヤーに囲われて安全かもしれない。
しかしこの景観の悪さは気になる。植栽たちの将来も気になる。
「この気の毒な植栽たちの未来に幸多からんことを、、、」
今世間ではB級ブームである。それに便乗してシリーズで紹介していきたい。
これは名古屋市近郊都市の賃貸マンションの「庭」である。マンションのバルコニー側からも道路側からもこの庭に入ることができない。
それを作った人たちには植栽の水やりや手入れは念頭にないのかもしれない。
想像するに設計士はえてして建築の余った部分を植栽で埋めたがる。空白恐怖症というものだ。
一方建築主(大家さん)は敷地を囲いたがる。囲い込み症候群だ。
この2つの合併症がこんな症状になって世間に登場したのである。
フェンスはポスターを貼るのにちょうどいいかもしれない。住人は2重のバリヤーに囲われて安全かもしれない。
しかしこの景観の悪さは気になる。植栽たちの将来も気になる。
「この気の毒な植栽たちの未来に幸多からんことを、、、」
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